Wednesday, August 16, 2006

言語の不思議な秘密。。。

日本語からクメール語または英語に訳するときにこんな困ったことがありませんか?
「意味にあった言葉がない」「辞書を引いたらこの言葉に訳しされるがなんか気持ち的に足りない」
僕は言語に秘められた不思議な力があると思います。一見して言語はただのコミュニケーションの手段のように見えますが、言語にはそれだけの意味だけじゃないと思います。言語はその国の文化を表す力があります。例えば、日本語にはほかの言語にない「いただきます」「ご馳走様でした」があります。英語を使う人、カンボジアを使う人はものをもらったときに日本人と同様に「感謝気持ち」があります。しかしその気持ちを表現する言葉が違うのはなぜだと思いますか?「いただきます」と「thank you」は気持ちの重みを考えればまったく違うと思います。
日本語で言う「頭がいい」をカンボジア語で表現すると「rien pou ke(リエン プー ケー):勉強がよくできる」という意味になります。頭がいいから勉強がよくできると思うかもしれませんが、その意味を真剣に考えるとちょっと違うかもしれません。「頭がいい」というのは恵まれた才能である一方、「勉強がよくできる」は努力したという意味があります。「勉強がよくできる」とは必ず頭がよくないとできないものではないのです。だから「rien pou ke」をいうと、僕の見方では、決してあなたは他人より優れる性質を持つのではなく、あなたはよく勉強したからいい成績を収めることができると捉えることもできます。
ここまで考えれば、カンボジアの社会はほめることが少ないと思いませんか?僕の家ではほめることがほとんどないです。試験を受かった、みんなが嬉しい、それだけです。「よくやった、よくがんばった」とほめられませんでした。そして僕自身もほめられたいと思ったこともないです。僕の家族だけなのですかね?
日本語では謙遜的な言い方が多いと思いません?自分でがんばって成功したのに「お蔭様で」だとか、少しオーバーだなと思ったことがありませんか?でもそれは日本の文化なんです。日本人にあった文化だと思います。そしてカンボジア人にはカンボジアの文化にしか合わないのです。そしてそれらの文化に合った自分の言語があると思います。この文章をカンボジア語に訳したら同じ気持ちで表現できるかどうかも保障できないと思います。
言語ってすごい力を持っていますね。

本音:この文章を書き終わったらなぜ自分がそんなことを考えるのか困惑しています。(○^=^○)

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